お蚕さん ぷらっとウォーク
 先日の新聞に「藤村製糸が操業休止 国内最大 奈半利町」の見出しで、国内最大の生産量を誇る、県内唯一の製糸会社が生糸の生産から撤退し、88年間に及ぶ歴史 を閉じるとの報道があった。養蚕農家の高齢化などで全国的に国産繭の供給が不足となり、中国産に太刀打ちできなくなったことが理由である。養蚕業や製糸業は、 長野や群馬だけではなく高知にもあったのである。1950年代までは片倉工業や郡是製糸(現グンゼ)の高知工場があり、生糸の生産を行っていたのである。
 ボストンでの国際会議の合間にフリーダム・トレールを散策した。歩道上に引いてある赤い線を伝って行けば主要な歴史的スポットを見て回れるようになっている。 アメリカの独立運動に関わって市民たちが議論を戦わせた会議場(教会)もその一つである。歴史的な事物を陳列した資料館になっている。ガラスケースの中に古び た厚手の書物が、ページを開いて陳列してあった。そのページには「第○章 米日間の貿易摩擦(TRADE FRICTION)」とある。今の貿易摩擦のことかと目を疑った。20 年ほど前の1980年代、日米間の貿易摩擦が激しくなった頃のことである。鉄鋼に始まりテレビや乗用車、そして半導体メモリーを輸出し、アメリカの対日貿易赤字が 膨れあがっていた時代である。プラザ合意の直前である。
 目をこらして読めば、「豪雨のような日本の貿易攻勢を防がなければ大変だ。日本製の生糸と茶の関税を高くする必要がある」との主張である。今から70年ほども 前の1920年代から1930年代の話だったのである。昔、日本に痛い目にあったことを思い出させるために、そのアピールのためにそこのページを開いてあるのだと思え た。
 私の子ども時代は戦前・戦後である。父親の転勤で北海道から九州までの日本の各地を転々とした。当時は、桑畑や桑の木は何処にでもあった。北海道でも養蚕が 行われていた証拠が残っている。札幌市中央区桑園という地名である。明治8年に荘内藩の入植者たちが養蚕を始めたそうである。稲作と同じように、養蚕は日本中 に広がっていた。そして、それぞれの地域の稲作の方法や養蚕の仕方を比較することが出来た。戦前は泊まり込みの勤労奉仕で、農作業や田畑改良作業、養蚕業の手 伝いをした。ぷらっとウォーク 多数のお蚕さんが桑の葉を食べるざわざわとした音で寝付けなかったことも思い出す。天から授かった虫だから蚕には、「お」と「さん」を付けるのだ と教えられた。ボストンの資料館で見た記事は体感として納得できるものであった。明治以降の日本の発展を支え、戦後の一時期にも日本を支えた産業の一つであっ た。
 藤村製糸の生糸からの撤退は、中国からシルクロードを伝わって西に運ばれた蚕や繭や生糸や絹が地球を一周して再び中国に戻っていったことの象徴に思える。

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