歴史の教え方、考え方

ぷらっとウォーク

 世界史の履修をさせずに、受験科目の補習に重点をおいた高校の教育が問題になった。教師も、親も、本人も、そして世の中全体が、大学進学を最終目的と勘違いしている結果である。偏差値で評価していることが、暗記することを勉強と勘違いさせているのではないだろうか。本来は好奇心を持たせることが大切なのだが。  

  高校時代、「ヨーロッパ大陸では英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語などなど多数の言語が存在するのに、中国大陸では中国語だけが主要な言語であるのは何故なのか」、「ヨーロッパ大陸では小国が乱立していたのに、中国大陸では広大な領土を支配する中央集権国家が多かったのは何故なのか」と質問した。先生は質問の意味を皆に説明し、「先生は今これに答えられない。この様に常に疑問を持って勉強して欲しい。歴史の勉強は暗記ではない」と諭された。この様に言える先生が素晴らしく、本当の教育を実践している人と思えた。そして、これらの疑問は折に触れて思い出していた。  

  スタンフォード大学の研究室で。部屋の掃除はメキシコ人、屋外の芝刈りはポルトガル人であった。ある日、窓越しに二人が立ち話をしている。何語で会話していたのかと尋ねると、それぞれの母国語であり80%位は理解可能と、片言の英語で教えてくれた。共通語と土佐弁ほども違わないのではと思われる。  

 次の話は学科のコーヒー・ルームで。私と中国人留学生との筆談を見ていたアメリカ人が大きな興味を示した。表意文字を、「木」、「林」、「森」を例に挙げて、読み方とは無関係に意味が伝えられることを説明した。このとき、表意文字が中央集権国家を可能にする一因ではないだろうかと思った。書面があれば、通訳を必要としないからである。  

  北京のホテルの部屋で。テレビからアイドルの流行歌が流れている。画面下に歌詞が映し出されている。略字が多かったが、陶淵明や李白の漢詩を眺めるようであり、理解することは難しくなかった。翌朝、迎えに来てくれた精華大学の先生に「何故」と質問した。「あの歌手は広東語で歌っているのです。北京語(共通語)とは全く発音が違うので、字幕スーパーが必要なのです」が答えであった。中国語として文字が共通でも、話し言葉は大きく異なることを知った。

 これらのことは、私の受けた世界史の教育、日本における歴史教育が、極めて欧米偏重だったことを示している。と同時に、文化、伝統、社会構造、宗教、技術に関わることなど、人類文明の多面的で総合的な観点が欠如している。極言すれば、王朝の栄枯盛衰のような歴史の一断面を暗記することが世界史・日本史の勉強と錯覚しているように思える。採点のしやすい記憶重視の傾向は今でも変わっていない。

 何にでも好奇心が持てるような、次々と疑問が湧き出してくるような能力を作り上げるのが勉強である。必修科目とは何だろうか。科目で縦割りに分割するのは何故だろうか。出題範囲とは何だろうか。正解がない問題はマスコミから出題ミスと非難されるが、考え方を問う歴史の問題は作れないだろうか。これに予備校はどのように対応するだろうか。

ぷらっとウォーク

● ご意見・ご感想・耳寄りな情報をお聞かせください。 [鈴木朝夫 suzuki@joho-kochi.or.jp]


PLATFORM No.233 2007年2月号